自分を愛するというお題目で「正当化したかった」わたし。
「自分を甘やかすと愛するの違いはなんですか?」
的な質問を目にする度に
「どっちでもいいじゃん、甘やかし上等じゃん」
って思ってきたけれど
今日ふと気づいてしまった。
「自己憐憫はいらないね」って。
甘やかしが自己憐憫になってるなら
もういいや、と。
「過去がこうだったから
現状こうです」
ここまではいいとして
いまこの瞬間にする選択を
過去のせいにするのは
言い訳なんだなと。
さっきダーリンと喧嘩したから
辛かったから
「いまスタバでシナモンロール食べちゃってもいいよねー」
ってな感じで
エクスキューズつけてみたりするアタクシ。
それって爽やかじゃないのよ!
太ろうがなんだろうが
いまシナモンロールを
食べるなら食べる
食べないなら食べない
その決断をいまする。
それが自己責任ってことだよね。
(スタバじゃないけど。。アイスモンスターだけど)
まあ、シナモンロールくらいならいいけどさ。
たとえばこんなこともしてるわけよ、わたし。
「ねえダーリン
この前ハンバーガー食べたから
なんか和食っぽいものっていうか
こんどはちょっと大人な感じで
寿司とか、どう?」
ただただ、ひとこと
「す・し・が・い・い」
そう言い放てないのは
なにか後ろ暗いからだと。
まだまだあるよ。
最大のは「ウツだったから」とか
「打たれ弱いから」とか
サクサク動けなかったことを
過去に紐付けてる。
違うよね。
たったいまの選択だよね。
落ち込んで寝込んだりするなら
それは過去のせいではなく
その瞬間の自分の選択なんだよね。
寝込んだりするのが
いいでも悪いでもなく
「次の選択はどうするか?」
しかないってこと。
エクスキューズつけないとは
過去を引っ張り出さないこと。
過去からが行動の理由なら
未来を自分で選択できなくなっちゃうじゃない。
だから
言いたいこと
やりたいことを
エクスキューズなしで
正当化せずに
「言って、やる」
ぎゃーこわいねこわいね。
甘やかすにしても同じで。
こんなことあったから、
あんなに悩んだから
というエクスキューズはなし。
ただ甘やかす。
あな恐ろしやでござろう?
なにかと理由をつけたいのって
結局は誰かの承認を得たい
ってことなんだと思う。
それでオッケーですよって
いいですよって。
言ってくれる誰かを
意識の上で
いつも探して
きょろきょろしてる。
わあ、もう疲れるからいいや。
おもしろいジョークだね。だが、問題を無視したり、問題などないふりをしろと言っているのではないんだよ。状況をきちんと意識し、気高い自分の姿に照らして語りなさいということだ。
破産したときは破産したときだ。それを偽ってもしかたがないし、認めまいと物語をでっちあげてもむだだ。だが、あなたは「破産は悪いことだ」「恐ろしいことだ」「自分は悪い人間だ。善い人間なら一生懸命働くし、破産なんかすまいと努力するだろうに」などと考える。
その考えが、「破産」の経験を支配する。「わたしは破産した」「一文無しだ」「もう金がない」というあなたの言葉によって、破産している期間が決まる。それをとりまく行動が自分を憐れんだり、落ちこんだり、「どうせ、だめなんだ」と思って、脱出の道を探そうとしないことが、破産という現実を長びかせる。
宇宙には「良い」状況も「悪い」状況もないことを第一に理解しておくべきだ。すべてはあるがままにすぎない。だから、価値判断はやめなさい。
第二に、すべての状況は一時的だ。どんなこともいつまでも同じままではいないし、静止してはいない。どちらの方向へ変わるかはあなたしだいだ。
神との対話 ニール・ドナルド・ウォルシュ著 吉田利子訳 サンマーク出版