自分が消え去ってもこの世界はひとつの問題もなく回っていく、という朗報。

ガオーって泣いて腹ぺこケロリがお薬♪

↑の続きです。

8カ月が経過し、また新たに落ちついて泣ける(?)日々になったようで、泣きながら思いました。

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「テオちゃんにこの想いは届くのかなあ?届いたらいいなあ」と。
そこまで考えてふと
「届かなくていいのだ」と、感じました。

 

もちろん、会いたいですよ、死ぬほど。
PCもモバイルもいまだテオちゃんが壁紙ですよ。

 

でもテオちゃんという形が無くなっていてもいいのだ、と。

テオちゃんという個の意識は消えるのは当然で、自由に形を変えてゆく大いなる生命の活動のひとつなのだと。

なんか伝わるかなあ。

 

 

楽になる人がいるかもしれないと思うので
「そう感じとれた3つの理由」を書いときます。

 

 

 

その1 いま感じていることが贈り物

「テオちゃんにこの気持ちが届かない。さびしい、悲しい、悔しい、不安、罪悪感」

いろんなことを感じています。
そしてこれが偽りのない全てです。

 

この全てがいまわたしに与えられているものなのだと。
神の愛なのだなと感じたのです。

 

悲惨だとか、辛いとかのレッテルを貼る前の
「生の経験」としてとても貴重なものです。

ありがたく味わいたいと思いました。

 

 

その2 わたしの心配だった

内観して観察してみたら
「死んで無になっちゃうの?」という不安は、自分のことでした。

自分が死ぬ時にどうなっちゃうんだろう?ということを想像していたようです。
だからテオちゃん関係ない。

 

自分の死に少しでも向き合える。
これもまた大事なことです。

いつか訪れる「わたしの死」を恐れるより当たり前のこととして
受け止めたいです。

 

 

その3 まったくわからないという朗報

命、生死、という壮大な仕組みは
わたしの手におえることではない。

だからわたしが背負わなくていい。
わたしはただこの世界に生かしてもらっている小さな存在としてゆだねていよう。

 

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自分が消え去っても・・・
この世界はひとつの問題もなく回っていくでしょう。

陽は昇るし
通勤電車は混むし
ランチにはみんなご飯食べるし
人々は夜には眠る

いつもと同じ日常。

 

これって悲しいことなのでしょうか?

それとも

とてつもない朗報なのでしょうか?

 

 

日々意識のほとんどを奪っている、問題だらけの人生に対する恐れと欲望のすべてが過ぎ去ったとき、いったい何が残るでしょうか―?一本の線です。墓石に刻まれる誕生日と没日のあいだの、1インチか、2インチほどの長さの、一本の線です。

 エゴの「わたしに」とっては、これは気の滅入る考えです。あなたにとっては、胸のすくような、解放感のある考えです。

Stillness Speaks 世界でいちばん古くて大切なスピリチュアルの教え
エックハルト・トール著 あさりみちこ訳 徳間書店

エックハルトさんの、この本がいちばん好きです。
本ではない本と呼ばれています。
 

 


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