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春になろう。
「器用になど生きられない。そんなひまはない」
春分の日になりトイレから出ようとドアを開けたら(スイマセン。。。)
ピコンと届いたメッセージ♪
そういえば一度も器用にやり遂げたことなどなかったな。
仕事も・・・
お金も・・・
結婚も・・・
コンサルプロデュース業として
なんかちょっとカッコいいところを見せようと
想ったりもするのだが
ウソついてもしょうがないもんね。
たくさん転んで
たくさん泣いて
起き上がってはえへへと笑ってる。
そんな人であると
もうみなさんの方が、知ってるわね?
そして器用に
やらないのでも
できないのでもなく
(ずっとそう思ってコンプレックスだった)
でもやりたくないんだ、ほんとうに。
ってこと。
ともかく思ったようにやりたいだけの人なのだと
カミングアウト始めたら・・・
わたしのまわりも、みーんなそうだった(笑)
友だちも♪お客さんも♪
よしわかった。
じゃあわたしはますます
ゴーイングるぴなウェイ。
ただいっしょうけんめい、自分であろう。
豊かさを思い出す春のアバンダンス祭り始めるよ♪
無料です。
セルフイメージ。それはただのシールです。お好きなものをどうぞ♪
こんにちは♪
さて今日は、自分に自信のない人へのメッセージ
「セルフイメージ」について♪
こんな風にとらえてほしい。
セルフ(自分)に対するイメージ(思い込み)って
ただの考え方のクセである、と。
たとえば・・・
右足を引きずって歩くクセがあるとします。
そうすると片方だけ靴底が減っちゃうし、なによりカラダがゆがみます。
見た目的にも美しくないよね。
整体に行ったり、ウォーキングを習うとしても
まずは意識して歩くことをするよね。
ついついクセが出ても
「ああ、まただ」なんてオーバーに責める必要はないでしょ。
ちょっと気をつければいいだけ。
同じようにただシンプルに
「あ、また変なセルフイメージを浮かべたな」
と考え方のクセを直したらいいだけなんです。
いつしか妙な偏りは減っていきます。
こういうとらえ方もできます。
セルフイメージは「レッテル貼り」である、と。
ついつい、いつものクセで貼るのね、いつものシール(レッテル)をピタッと。
そのシールが気に食わなければ
他のシールを選べばいいのよ。
可愛いいの、カッコいいの、綺麗なの、キラキラしたの、パワフルなの・・
たくさんあるから。
シールだからね♪
たまーに「そんなシールないんです」って言う人いるけれど
憧れの人のシールをもらってきたらよろし。
もしくは
わたしのとこに来なされ♪
「ほら、ここ、隠し持ってるよ」
ってザラザラとステキなシール出してあげるから。
あなた後ろに隠れてる才能能力魅力のつまった背中のリュックから、ぶちまけてあげるから。
最後に・・・
あくまでもセルフイメージはレッテル、貼り付けたシールでしかありません。
誰かに愛されたり認められたりした時には気分がいいので
セルフイメージも上がりやすいでしょう。
でもその人の本来の価値とは1ミリも関係ないのです。
それがわかっていたら
気軽に好きなシールを貼れるでしょ。
わざわざ嫌いなシールを選ぶことないもんね。
↑某社長のバースデーにちゃっかりともぐりこみゴチになるの図
ついしん
わたしは基本、「お調子者テケトー星人」なんですが。
それじゃイカンと幼い頃に思ったんでしょうね
「なんてわたしってダメなんだろ」
というシールが大量生産されていて、ため息とともに貼り付ける趣味があります(ドM♪)
「これいらなかった」とすぐに剥がせるくらいにはなりましたが。
大量生産ラインはフル稼働中です。
この働き者の工場をどうこうする努力より、ただ気づく。
それだけです。
価格を上げるということ。それすらも愛でしか進めない。
最近あらためて、お客さんと話している時間が好きです。
今日も、ほんとうにステキな時間でした。
嬉し過ぎて午後の予定をブッ飛ばしてプチリトリート。
読書&瞑想ざんまい♪
あ、あとモフモフとたわむれる、ね。
はー贅沢、贅沢。
今日の話のメインディッシュは
価格を上げるという話でしたが・・・
それは愛でしかなかった。
心に秘めていた想いを
想いのままにやっていく。
それを望む人とつながる。
それは
価値を理解してもらうことで
結果、価値が上がり
よって、価格も上げられる
ということにつながります。
なんとシンプルなことでしょう。
☆
マーケティングの手法や戦略といったもの
世の中に山のようにありますけれども
まずは愛が感じられるかどうか。
そこ抜きにしては前へ進めない。
今日お会いした
社長歴何十年の彼女がぶつかったのは
きっとこの壁なのでしょう。
人間の本質ってそうじゃないですかね。
ビジネスやお金から逃げるのではありません。
でも土台、根っこはなんでしょうね?
わたし
「プロデューサーの肩書きをおろすーっ」
と騒ぎ出してから
新規プロデュース案件を断る以外
まだなにもしていないのですが(笑)
今日は
「愛だろ、愛」
という熱い気持ちを持てたのは
いまいちど根源に戻ろうとしてるからだと思います。
あなたの成長と成功を微笑んで見守り導く
大地のような、母のような存在が
ひとりひとりのハートの中にあるってことを
ぜひ感じてほしい。
それがすべてを生むから。
動くのじゃない。
動かされるのだ。
もうじき個人セッションを再開すると思うので
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ホーキング博士で真っ先に思い出す話。厳しい限界を受け入れる奇跡。
ホーキング博士さようなら。
あなたは世界に影響を与えた偉大なる人。
でもわたし
功績よりもなによりも
ホーキング博士で真っ先に思い出す、思い出したいのが、この話。
ご紹介します。
限界を超える
「ニュー・アース」より一部抜粋
エックハルト・トール著
吉田利子訳
サンマーク出版刊
形は限界を意味する。私たちが地上に生を受けたのは、その限界を経験するためばかりではなく、意識のなかで限界を乗り越えて成長するためでもある。
外的なレベルで乗り越えられる限界もあるが、そのまま抱えて生きることを学ぶしかない限界も人生にはある。そのような限界は内的にしか乗り越えることができない。
誰でも遅かれ早かれそのような限界にぶつかるだろう。そういう限界にぶつかると、人はエゴイスティックな反応の罠に落ちるか(これは激しい不幸を意味する)、あるがままを無条件で受け入れることで内的に乗り越えて優位に立つ。
それが私たちに与えられた課題なのだ。あるがままを意識のなかで受け入れると、人生の垂直軸の次元、深さの次元が開かれる。そしてその垂直軸の次元から何か、無限の価値をもつ何か、そういうことがなければ埋もれたままだったはずの何かがこの世に現れる。
厳しい限界を受け入れた人々のなかには、ヒーラーやスピリチュアルな指導者になる人もいる。また人間の苦しみを減らし、この世に創造的な贈り物をもたらすために、自分を捨てて努力する人もいる。
1970年代後半、私は毎日のように一人、二人の友人と、当時学んでいたケンブリッジ大学大学院のカフェテリアで昼食をとっていた。そのときに近くのテーブルに車椅子の男性がいるのを見かけることがあった。男性は、いつも三、四人の人たちと一緒だった。
あるとき、同じテーブルで向かい合わせになったことがあり、ついその男性をしげしげと見て、ひどく驚いた。彼はほぼ全身が麻痺しているらしかった。
身体には力が入らず、首もがっくりと前に垂れている。付き添いの人たちの一人が食べ物を口に運んでやるのだが、その大半は別の付き添いが男性のあごの下に差し出す小さな皿にこぼれ落ちる。ときおり車椅子の男性がうめき声のようなものを発すると、誰かがその口元に耳を近づけ、なんと彼の言わんとしていることを、他の人に伝えるのである。
そのあと私は友人に、車椅子の男性が何者か知っているかと尋ねた。「もちろん知っているさ」と彼は答えた。「数学の教授でね、付き添っているのは教え子の院生だよ。身体じゅうで麻痺が進行する運動神経の病気にかかっているんだ。医者は五年もてばいいほうだと言ったらしい。あれ以上つらい運命ってないだろうな。」
数週間後、カフェテリアから出ようとして、その男性が入ってくるのと出会った。電動車椅子を通すためにドアを押さえている私と彼の目が合った。彼の目があまりにも澄んでいるのに、私はびっくりした。そこには不幸のかけらもなかった。私はすぐに、彼は抵抗を完全に放棄していると感じた。彼はありのままをすべて受け入れている。
それから何年もたって、キオスクで新聞を買っているとき、その男性が大手の国際ニュース雑誌の表紙になっているのを見てまたビックリした。彼、スティーヴン・ホーキングは、まだ生きていたばかりでなく、世界で最も有名な理論物理学者になっていたのである。
記事の中には、何年も前に彼の目を見て私が感じたことを裏付ける見事な一文があった。自分の人生について尋ねられて、彼は(音声合成装置の助けを借りて)こう答えたという。
「これ以上、何を望めるだろう」。
「これ以上、何を望めるだろう」
ホーキング博士のこの生き様。言葉が出ないね。
今日ね、公園でお散歩中の黒柴の老犬と出会ったんです。
ゆっくりゆっくりとよろけながら歩く後ろ姿。
ああ、と胸が痛みました。
静かに追い越そうとしたその時、向こうからやってきた元気なメスのワンコ。
よろよろしていた黒柴君はしっかりと立ち止まり、りりしくそちらを向きました。
通りすがりに黒い瞳をのぞきこんでみたら、彼は自分を憐れんでいるような様子などみじんも感じられなかった。
どんなによろけていようと、艶々だった毛もぼさぼさになろうと、なにとも比べずうらやまず、ただ散歩を楽しんでいたのです。
可哀想なんて失礼だった。
そうわかって、安心して黒柴君の長生きと健康を心の中で祈りつつ立ち去りました。
エックハルトさんがのぞいたホーキング博士の瞳も、きっとこんな風だったのでしょうね。
「これ以上、何を望めるだろう」
そんな日々を積み重ねたいですね。
地球乗組員♪
「あの人にあって、わたしにはない」
いまプロフィールを作り直しているのですが・・・
たびたび浮かび上がってきてわたしを悩ませているのが、この思考です。
すぐ人と比べるからなんですけども(バカだねえ・・・)
今朝眠気覚ましに、コーヒーをすすっていた時にふとお告げ(笑)がありました。
「どこまでをチームとして考えるのかどうか、だ」と。
なーるほどね。
どこまでチームかね?
たとえばね・・・
隣りの旦那の稼ぎが良くっても
「ちーっとも関係ないわ。むしろ不快だわ」
などと考えますけれども♪
隣りの旦那一家はもらい物が多くて、高級な食材やギフト券なんかをしょっちゅうおすそ分けされているとしたら?
これ、いいですよね。
「どんどん稼いでくれや」って思っちゃう(笑)
ま、これは自分に利益がある人たちをチーム扱いしているだけですけれど
そうではなくても。
たとえば昨日は3月11日でした。
あちらこちらで東日本大震災への想いを目にしました。
3.11東日本大震災から7年が経った。
震災で犠牲になられた方々のご冥福をお祈りいたします。
1人の人間としてやれることは微力でも、みんなが集まれば大きな力となる。
行動できる人間でありたい。
被災地が一日も早く復興することを切に願います。
Don’t forget 11.3.2011.#earthqua#tsunami pic.twitter.com/K9vw9w9hBm— Yuto Nagatomo | 長友佑都 (@YutoNagatomo5) 2018年3月11日
7年前だってそうだよね。
当事者でないわたしたちも、東北の人たちの無事を心より願いました。
なにもできない悔しさや焦りも感じるくらい、同じチームでした。
なにかあったときだけではなく、普段から同じチームってことを思い出したいね。
今年はこれで♪↓
一ノ蔵の全額寄付の酒の事を良く分かってない人が多いと思うけど「売上全額寄付」だからね。売上の一部でも利益でもなく仕入れた酒米代、瓶代、ラベル代、人件費などの経費もすべて含めた全額寄付! 自らも被災されたのに震災の年から20年間支援継続される。このお酒こそ真の「献杯酒」だと思います。 pic.twitter.com/Mwyc4dsJx8 — 黒かどや (@kadoya1) 2018年3月2日
だから今朝のメッセージの意図としては、どこかにあればいいという感じなのかと。
わたしのところになくても、地球全体ではどこかにある、と。
たとえばわたしは豪邸を所有していないし・・・・
美貌をまとっていないけれど・・・
地上にはたくさある♪
立派な家を眺めるのも、美人を見るのも好きです。
癒されます(笑)
そもそも(わたし)にないの
(わたし)ってなんだろ?
こんな経験があるんです。
めっちゃ愛が欲しかった頃。
愛されたかった頃のことです。
お気に入りのカフェがありました。
アンティークの家具、あちこちに飾られた珍しいお花たち。
熱々のポットで出される紅茶とていねいにつくられたケーキ。
このお店の隅っこで本を読むのが好きでした。
ある日親子3代が来ました。
おばあちゃんはお孫さんに笑いかけます。なんども。
可愛くって仕方がないという風情で、あやしています。
わたしはベビーカーの後方に座っていたので
おばあちゃんの視線の延長線上というか。
わたしに向かってしゃべりかけているようなちょっとした錯覚を覚えました。
おばあちゃんのとろけるような視線が、その時わたしを射抜きました。
「ああ、わたしに向けられた愛でなくとも、
こんなにも豊かで気持ちがいいものだな」
と知りました。
それからも親バカ話が好きです♪
孫でも子供でもペットでも・・・
あの嬉しそうなウキウキした表情って、周囲に光を放ってますよね。
思い出すなあ。
わざと駅の改札の近くあたりで
柴犬をお座りさせて一休みしていたオジサン。
高校生や親子連れが通りかかっては
「わーー」って黄色い声を上げてた。
わたしはそのオジサンの自慢げな嬉しそうな様子を見るのが好きでした。
ひそかにニタニタしてました。
そういうのって、いろいろありますよね。
仲睦まじい老夫婦なんて見かけた日には
1万円札を拾ったくらいに心がホクホクしちゃうもの!
(たとえが悪い?(*⌒∇⌒*))
これって
(わたし)の枠が外れている瞬間。
(わたし)を忘れている瞬間。
(わたし)の心配をしていない瞬間。
愛だけじゃないんです。
豊かさもそうなんです。
スタバをわたしの書斎と呼んでます。
ホテルラウンジをわたしの応接室として使っています。
もちろんわたしは所有していませんが。
空調が整い
いつでもステキな音楽が流れ
季節の花が飾られていたり
程よい喧騒もまたいい。
美味しい飲み物はあるしねえ。
自分で管理しようと思ったら、どんなに大変なことだろう。
だから、この世界の豊かさは
わたしのものでもあるわけですわ。
愛も豊かさも
花の香りのようなもので
誰かだけにつかめるものではないのね♪
と思った今日です。
朝の光の差し込む、わたしの書斎にて♪
日本を褒める。自分の未来に光を灯す。
震災から7年の今日、お散歩していてね。
軒先のモクレンの花や、ベランダの洗濯物をながめながら思ったの。
もっとこの国の良いところを褒めようって。
うちのマンションも含め、東京はウサギ小屋のような小さな住まいに、ちまちまと人が暮らしていて、住宅事情がいいとはとても言えないけれど。
なんかちっさいところに、人がいっしょうけんめい暮らしている様子が今日は愛おしかった。
「みんな幸せでありますように」って、気づいたら祈ってた。
足りないことをあげたらキリがないんだよね。
それは世界のどの国でも同じ。
カンペキはない。
だからって政治家に文句言い、社会にマスコミにと不満をぶつけ。
そんなことをしても震災の復興にはならない。
間違っていることは主張する。
でも同じくらい日本をほめよう。
わたしはそうしようと、今日思ったの。
観光客の行き交う道の端で眠るホームレスの親子もいないし・・・
歩いているだけで大量に押しかけてくるモノ売りもいない・・・
シャワーから茶色の水が出てきたりしないし・・・
ドラッグ中毒者しかないような廃墟地帯もない・・・
空港にマシンガンをもってパトロールする軍隊もいないし・・・
パトカーに止められてグローボックスを探っても、銃で打たれる心配もない・・
日本の国の当たり前が、世界ではそうでないことがたくさんあるよね。
今日、この日。
あらためて。
自分の家の庭の木や花を愛でるのと同じように
自分の国も敬いたいと思いました。
だってほら、自分の未来に希望が欲しいじゃない?
自分を取りまいているいちばん外側の部分、これが信頼できなかったら、自分のことだって信じ切れないじゃない?
だからね、光を灯したい。
わたしの心に、この国に。
「人生の恵みに感謝する」
いいことを教えましょう。あなたが人生で尊重するものは、価値があがります。
あなたが考え、注目するものは、成長します。あなたが感謝するものは、価値があがって、さらにありがたく感じられるようになります。
「1つ目標を持てば人生は一変する ロビン・シャーマ著 北澤 和彦訳 海竜社刊」
「このわたしにできることがたくさんある」という豊かさ
なんどもさ迷い出てては
結局のところ戻ってくる。
工夫や学びは大切だが
気をつけないとすぐに落ちていく。
不足感がベースのところへと
たとえば本屋に行ったとしよう。
「このままじゃダメだよ、自分を変えよう」
「世の中は大変なことが起きるから、準備しよう」
っていう本であふれかえっているから。
こんなツイート。
ミラノの広告たちが恋しくて泣いてる。
東京の広告のセンス、最低最悪。
本当に「おまえはブスだからもっとこうしろ」「あれをしなきゃ負け犬だぞ」「毛を抜け」「毛を生やせ」「金を借りろ」「英会話やれ」ばかりだよ。
気が狂いそう。— kurikuri321 (@kurikuri321) 2018年3月3日
PR関係の仕事が長かったので
よくわかるんだ。
「いまのあなたには問題がある」
としなければモノが売れないから、世の中はこぞって洗脳なのだ。
だから「このままで十分です」と立ち止まる人は奇異に見られる。
もちろんその精神は売り手側にもはびこる。
駆り立てられるようにして働かない人は
「やる気がない、甘えている」
などの悪い評価がつくのね。
わたしが以前勤めていた会社の社長は
「倒れてからが本物だ」と豪語していたし。
実際に倒れて辞めることになったんだけどね♪
そしてもうひとつ。
すぐに不足感の罠に陥るものとは?
それは才能。
セルフイメージと言い換えてもいい。
付け足すことで
どうにかしようとしてやしないか?
もしくはすっかり
あきらめていたり。
そうではなく
「このわたしにできることがたくさんある」
という事実に気づこう。
いまあるものへの感謝こそが
豊かさのことだと思う。
この世界をどう見るか?
欠乏なのか
それとも
豊かさなのかと
いつも問いかけられているね。
わたしの原点
恩師アラン・コーエンの言葉を紹介します。
欠乏と豊かさの距離とは
何十億という人々がこの星のいろいろな都市や田舎に住んでいるように見えるが、実は住むところはたった二箇所しかない。
「スケア・シティ(Scare 恐怖の意味)は恐ろしく、脅威に満ちた場所だ。お金がいつも足りず、物価は高く、それを供給する人々も信頼できない。スケア・シティの原動力はサバイバルだ。自分の安寧をかけてまで誰かを助けることなどあるのだろうか?今のままでも十分大変なのだ
スケア・シティでは毎時間、ニュース番組や新聞が恐怖におののいている視聴者の眼前に、大惨事や大混乱の見出しを派手に書き立てる。
どこかで聞いたことがあるだろう?たった今読んだのは、この星の現在であり、歴史的に何十億もの人々を支配してきたものだ。
そしてこんな場所にも覚えがあるだろう。スケア・シティから少し(ほんの一つの思考分だけ)行ったところには、正反対の世界がある。そこに住む人々は、ずっと続く平和と調和、そしてどこを見ても美しさと善があることへの感謝の心を持っている。
それで彼らのバン(Bun お尻の意味)がいつも踊っているために、この王国はそれにふさわしく、「ア・バン・ダンス(Abundance 豊かさとかけている)」と呼ばれている。陽気な人々が、ア・バン・ダンスの小道を、昼夜かまわず歩いている。大いなる力が共に歩いてくれていると信じているのだ。
バン・ダンスの踊り手たちは、スケア・シティの人々の意識を支配する善と悪という敵対する力からは、超越して生きている。
彼らは、全宇宙を慈悲深い保護のもとに優しく包む、たった一つの「大いなる愛の力」を認めている。
「人生の答えはいつも私の中にある アラン・コーエン著 牧野・M. 美枝訳 ワニ文庫」より一部抜粋
好きなことをし、冷笑され、でも得たものは旦那?(笑)
好きで綴っていた詩を
初めて手作りのポストカードにしたのは何年前のことだろう。
友だちはとっても喜んで、とっても応援してくれた。
しかし冷笑とも言えるくらいの対応をしたのは・・・
長年お付き合いのあった作家や出版関連の諸先輩方だった。
「こんなの始めたんですよ」
って飲み会の席にウキウキ出向いた、わたしの心はぺっちゃんこ。
わたしの態度も痛かったのでしょう。
まるで売れない弾き語りのミュージシャンが、ギター片手に押しかけて来たみたいで。
(ごめんね、ミュージシャンで。いいたとえが見つからず・・・)
うん、そりゃ痛々しいよ。
でもわたしね、だからこそ初めの一歩を応援する側に回ると決めたんだ。
危なっかしく痛々しいその一歩をね。
プロデューサーとしてやってきた理由は、こういうことだね。
いまでも街角で演奏しているミュージシャン見ると心の中で必ず言ってる。
「がんばれ、めげるな」って。
(またミュージシャンでごめんね(笑))
ポストカードはその後ちゃんと印刷するに至り、しばらく配ったりして喜んでいた。
またやりたいなあ。
ついしん
その手作りポストカードのおかげでね、旦那をゲットしたのだよ。
詩の朗読をさせてもらう機会があって・・・
その縁で朗読会を開くことになって・・・
そのまた縁で彼と出会った。
「いい詩だなあって思ってた」って♪
なので好きなことは、バシバシやろう。
お金にならなくともいい、認められなくてもいい、痛くていいじゃん。
もっといいもの、ほんとうは望んでいたものが手に入るかもよ♪
そうさ 僕らは
人の才能について関わらせてもらうことの多いわたしですが・・・
これにまさる真理はないと
最近ますます思います。
ナンバーワンよりもオンリーワン
その花を咲かせることだけに
いっしょうけんめいになればいい。
この歌詞を教えにして説いたところで
たくさんの人の心には響かない。
なんて伝わるのでしょう。
感じるのでしょう。
音楽って素晴らしい!
小さい花や大きな花
一つとして同じものはないから
もうすぐひな祭です。
個人的にお祝いと壮行の気持ちをこめて。
この歌を、音楽と教育の新たなる道をゆく友に贈ります。
マーケティング嫌いな人のためのコピーライティング その1「想いを伝える」
自分のビジネスのコピーライティングが苦手なひとー?
はーい♪
わたしです♪
(人のはできるんですけどねー自分のはめっちゃダメ)
特に「誰のために?どんな想いで?」を考えるのが、苦手です。
好き勝手やりたいから(笑)
基本、なにをするのも「自分の歓びのため」
というスタンスでいいのですけれど
でもね、どうせビジネスをするなら
想いを伝えたいじゃないですか?
ましてやコピーライティングですもの。
お客さんに語りかけるという原則があります。
当たり前だよね。
自分だけがわかる文章を書いても
仕方ないものね。
そういうの自然に出来ている人がうらやましい!
といいつつ
どうして苦手なのか?
どうしたらいいのか?
がわかったので書いときます。
単純な話なのだけれど
お役にたつといいな。
わかりやすくプレゼントのたとえ話にしました♪
たとえば・・・
誰かに「お花を贈ろう」と思ったとします。
色とりどりの花屋の店頭で
相手の顔を思い浮かべつつ
一生懸命選ぶでしょう。
「季節の花を入れたらいいかな?
今なら桃とか?
あっちに桃の枝の入ったアレンジメンとがあるな。
ピンクで可愛らしくていいな。
でも、あの人ならもっと大人っぽい方がいいかな?
パープルの薔薇があるから
シックな色合いでまとめて・・・」
みたいに!
熱心に選んだとしても・・・
でもね
もらった相手がどう思うかって、正直わからないじゃないですか?
その時たまたますごく余裕がなくて、ほっといて枯らしちゃうかもしれないし。
猫が引っ掻いたり(我が家♪)・・・
お子さんがむしっちゃったり・・・
そんなアクシデントも発生するし。
もしかしたらなにか思い出があって
「その花」が嫌いだったりなんて可能性もなくはない。
そもそも花を愛でる心境にないってことも、充分考えられるわけですよ。
お菓子だって一緒よね。
スイーツをお土産にしようと思い
デパ地下ならデパ地下という限られた選択肢の中で
「どれが美味しそうかな?
どんなの好きだったかな?」
って一生懸命選ぶよね。
「へー生クリーム系が流行ってるんだ。
でもあの方、和菓子好きだったよな。
じゃ和と洋のコラボ的なやつ?
でも斬新過ぎかしら?
定番のが喜ばれるかしら?」
なーんて
いろいろと考慮して選んでも
もしかしたらダイエット中かもしれないし。
食欲がなくって、誰かにそのまんまあげちゃうかもしれないし。
そうやって相手のことを考え、想像し、熱心に選んで・・・
喜んでもらえなかったら
「あちゃー」だし
悲しいけれど。
それは「相手のことだ」と、切り離して考えるじゃないですか
ほんとに喜んだかどうか、見張らないでしょう?
「ちゃんと飾った?ちゃんと食べた?
証拠写真撮ってフェイスブックに上げてよ!」
とか
言わないでしょう(笑)
もう渡したらそこで終了。
「喜んでくれたらいいな」
という自分の想いを形にした時点で、プレゼントする側って満足できるものね。
だから
「誰かのために想いを伝える」
のが苦手な人って
ほんとは想いはいっぱいあるんだけれど
「受けとってもらえないんじゃないか?」
「誰も喜ばないんじゃないか?」
という
「結果ばかりを気にしているから」
もしれないよ。
だから
プレゼントの感覚を思い出して。
喜ばれないかもしれないけれど
それはわたしの領域じゃない。
「結果は天に任せよう」
と決めて
想いを書いてみよう。
コピーライティングしてみよう。
ほら、これならできそうでしょ?